品井沼干拓の歴史

昔の品井沼

 松島町の北部を西から東へ吉田川が流れ、その周辺には広大な水田が広がっています。
周りを丘陵に囲まれた低い土地になっていて、300年ほど前までは、吉田川や鶴田川、その他の小さい川がたくさん流れ込むために、大きな沼になっていました。
沼の水は、ふだんは小川から鳴瀬川に流れ出ていました。
しかし、大雨が降ると大洪水になって鹿島台から松島、大郷にまたがるほどの非常に大きな沼になってしまいました。
そのときの広さは、仙台藩でも最大の湖とも言われるほどでした。逆に、日照りが続くと、この沼は一面に草が生えた谷地(やち)になりました。品井沼は長い間、このような状態を繰り返してきたのです。
そのため、近くに住む人々は、苦労して狭い田で米を作ったり、コイ、フナ、ナマズなどの魚やエビや貝、水鳥やけもの、沼一面に生えている菱などをとったりして暮らしていました。

 

元禄排水路(元禄潜穴)を作る

 江戸時代の初め頃、米収穫の増大を図ろうと仙台藩では新田開発を計画しました。
長い準備をした後、1693年(元禄6年)に根廻村の肝いりである清右衛門(せいうえもん)のところに多数の“鉄道具”が到着して、大越喜右エ門(おおこしきうえもん)を中心に工事が始まりました。
  工事は、松島丘陵の下にトンネルを掘って、沼の水を松島湾に流すという方法がとられました。
最初に、いくつかの縦穴(ずりだし穴)を掘り、次いで、それらをつなぐように横穴(くぐり穴)を掘るという方法で進めたのです。
  沼から松島湾までは、約7400mもありましたが、高さの違いは2.1m程しかなかったり、岩にも硬いところや軟らかいところがあって、当時の技術では非常に難しい工事でした。やがて工事は5年の年月をかけて松島丘陵に2578mもの2本のトンネルを掘り、沼の水を松島湾へ流すことができるようになりました。

 

水害と改修工事

 1698年(元禄11年)に元禄排水路の工事は完成しましたが、その後の長い歳月の間には、土砂や木の枝などでくぐり穴が詰まったりして、水が流れにくくなることもありました。
また、平掘りの部分では岸が崩れ、堀の中には葦や柳などが生い茂り、周囲の平地と同じ高さになったところも多くなってしまいました。
そのために以前と同様、たびたび水害が起こるようになり、仙台藩では明治時代までの間に6回の改修工事を行いました。
そのたびに沼の周囲の村から多くの人々が集められ、堀や堤防の改修工事が行われました。

 

明治排水路(明治潜穴)を作る

 明治時代になると、トンネルの流れはさらに悪くなり、大雨が降るたびに水害になりました。
田や畑の収穫がなくなり、人々は非常に貧しい暮らしに耐えていました。
そこで干拓を進めるため、宮城県や国は、オランダ人の技師ファン・ドールンに沼を調査させました。
その結果、12本もの排水路が必要となることがわかりましたが、それでは工事費用がかかりすぎることなどから、計画は中止になりました。
しかし、人々の干拓への熱意は冷めることなく、松島、鹿島台、大谷、粕川、大松沢の五つの村が力を合わせようと組合を作りました。
松島(幡谷)の大友伝吉(でんきち)、鹿島台の鎌田三之助(かまたさんのすけ)、大松沢の高橋仲之助(なかのすけ)らが中心となって宮城県や国に働きかけ、沼の調査をして、干拓の計画を立てました。
 そして1906年(明治39年)5月、南と北の水路を掘ることから工事が始まりました。
幅が15mから40mという大きな川で、掘った土は小さな機関車にトロッコを引かせて運び、北部は幡谷の富田に捨てました。
その場所は、現在でも「捨て場」と呼ばれています。南部は三居山や磯崎などに捨てました。
大変だったのはトンネル工事でした。土が軟らかいために、崩れて亡くなった人もいました。
また、ここを通られた皇太子(後の大正天皇)が列車を一分間停めて皆を励まされたこともありました。
1909年(明治42年)には大雨のために3本のトンネルが崩れてしまうということもありました。
そこで設計を変更し、トンネルを一部レンガ巻きにしなければならなくなったりもしました。
工事がなかなか進まず、争いも起きて「工事を中止した方が良い」と考える人たちも出てきました。
鎌田三之助らは、反対する人を一生懸命に説得し続けました。
様々な苦労と努力の末に、工事は1910年(明治43年)完成し、12月26日に松島町幡谷の松葉山を式場として盛大に通水式が開催され、人々は大いに喜びました。

 

小川に閘門(こうもん)を作る

 1906年(明治39年)明治排水路工事の初めに、鳴瀬川から水が逆流しないように小川に「閘門」(水量を調節するための門)が作られました。4つの門と8つの扉があり、品井沼に向かっては閉じ、鳴瀬川に向かって開くようになっていました。
1914年(大正2年)になって、必要がなくなったため取り外されましたが、8年にわたって、品井沼の水害を軽くするために大きな役割を果たしていました。
この一部が鹿島台小学校の校門として今でも残されています。

 

干拓地への移住

 沼の水がなくなっても、そこが、すぐに水田になるわけではありません。
荒れた湿地を水田に変えるためには、大きな努力と苦労がありました。
干拓のために県内や県外からたくさんの人々が移住し、鳴瀬川の川岸に手軽で粗末な家を建てて住居にしながら開墾に励みましたが、生活は非常に貧しく苦しいものでした。
これらの工事のほかに、小さな川を鶴田川に集めて高城川に流したり、低い土地の水を揚水機(ようすいき)で吸い上げて吉田川に流すなどの工事も行いました。

 

昭和の工事

明治排水路が完成したことによって、たくさんの土地が干拓されました。
それでも、大雨が降ると、吉田川から大量の水が流入するのと、鳴瀬川の水が沼に逆流するために堤防が切れ、家や田畑が何度も流されました。
そこで吉田川を沼から切り離して、新吉田川を作り、海まで直接流すようにしました。
また、サイフォンを作り、鶴田川の水が吉田川の下を通って高城川に流れるようにしました。
サイフォンは1940年(昭和15年)に完成し、開墾は本格的に進むようになりました。
水害のない町を目指すとは言え、昭和の時代になっても、大雨や台風などで、大きな水害が起きました。

  1978年(昭和53年)の宮城県沖地震では、明治潜穴(せんけつ)の内部が600m程にわたって崩れたり、ひびが入ったりしました。
大勢の努力によって美しい田に生まれ変わった品井沼を守るために、レンガ作りだったトンネルを頑丈なコンクリートにする工事が行われました。このときに、「明治潜穴」という呼び名が「高城川トンネル」という名前に変わりました。
1986年(昭和61年)8月5日の水害では、吉田川の堤防が四ヵ所も切れ、水が旧鹿島台町、松島町、大郷町などに広がって、以前の品井沼のようになってしまいました。家や田畑が水に浸かり、甚大な被害が出たのです。
最近は吉田川や高城川流域の開発が進み、雨水が一度に川へ流入し、短時間で水量が増えるようになりました。
また、これまでの排水機場のポンプでは水を汲み上げる力も不足していることなどから宮城県は、2000年(平成12年)に幡谷地区の排水機場や排水路を新しく作ったり、改修したりする大規模な工事を開始しました。
このように水害に悩まされてきた町では、水害のない町を目指して、今も様々な努力が続けられています。

 

品井沼干拓資料館

 会議室、資料展示室(元禄潜穴、明治潜穴関係)
 

品井沼干拓は、元禄年間に品井沼を干拓した事業で、県内でも有数な施設です。
品井沼駅周辺には、干拓事業でおこなった元禄潜穴のほか、明治時代におこなった明治潜穴等干拓事業に関連した施設が多数あります。
また、元禄潜穴入口(穴頭)には、品井沼干拓の歴史資料が展示してある「品井沼干拓資料館」もありますのでぜひご利用下さい。

 

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松島町の干拓の歴史

 品井沼干拓のほかにも、松島町には、これまでにたくさんの干拓の歴史があります。
田や畑を広げるためには、山林や荒地を基地開いて農地にする“開墾”と、湖などの水を干して農地にする干拓“があります。
海に面した松島では、入り江の奥にある湿地になっている場所を埋め立てたり、海の中に堤防を作り、海水をせき止めて田を広げる“干拓”の方法がおおく行われました。
昔の大きな干拓として有名な記録が3つあります。
早川堤防(旧第三小学校近く)
今から340年ほど前、武士の早川義泰(よしやす)と名主の卯右衛門(うえもん)が、早川の海に長さ210mの堤防を作り、干拓をして新しい田を拓きました。

 

古浦(ふるうら)の堤防

 260年ほど前、土井作左衛門(どいさくざえもん)が中心となり、箕浦・白浜・広沢の海に、合計230mの堤防を作り、新しい田を拓きました。

 

佐助(さすけ)堤防

 150年ほど前、安部佐助(あべさすけ)を中心に、元手樽に210mの堤防を作り、塩田を拓きました。
現代のように大きな機械や便利な道具なども少なかった時代であっても、小さな干拓や開墾が多くの人々の手によって行われました。
当時の記録から、手樽・高城・磯崎・桜渡戸では、田の広さがおよそ1.5倍になったことがわかります。
300年ほど前には品井沼干拓も行われ、品井沼に面した地域(竹谷・北小泉・幡谷)では田の広さが2倍にもなりました。
その結果、松島全体で、およそ800ヘクタールが田や畑として利用されたと考えられます。
百年ほど前から、再び干拓が盛んに行われるようになり、少しずつですが、さらに田や畑が広がっていきました。
その中でも、規模の大きいものとして、次の二つがあげられます。 

(1)磯崎塩田跡の埋め立て

 江戸時代に塩田として使われた場所を1950年(昭和25年)に埋め立てて陸地にしました。
当時としては極めて珍しい、町と企業が協力して行う第三セクター方式がとられました。
このときにできた20ヘクタールの新しい土地には中央公民館やホテルなどが建っています。 

 

(2)手樽湾の国営干拓事業

手樽はもともと大きな入り江でした。この入り江を横切る海の上を走る電車が仙石線だったのです。
1956年(昭和31年)から12年という長い年月と65億円の費用をかけて、この入り江を干拓し、128ヘクタールもの広大な田を拓きました。